HISTORY

Chapter1  1986年 発端〜誕生


大阪市浪速区にあった近畿NEC商品販売(株)(この社名は現存しない)のOL・Oさんが所属するアマチュアバンド "objet"

(奈良県在住の女性によるアマチュアバンド。「解散ライブ」と称して観客を集め、それ以降も同様に年数回の「解散ライブ」を行うバンド) の練習を、

Oさんと同僚である大橋・大塚・山崎・永山が生駒市内のスタジオに見学に行った際に、 つい口走った一言「俺達もやろう!!」が、

Yonkai Bandの始まりである。


思い立てば行動は早く、その数日後にはこの4人にさらに数名を加えて、 ほとんどが大阪または兵庫在住にも関わらず、

あえて生駒のスタジオに出向き、 objet が熱心に練習する隣のスタジオでリズムマシンを鳴らし、小太鼓さながらのドラムを叩き、

練習曲「いとしのエリー」を山崎(key)・大橋(g)・大塚(vo)が弾く傍らで、 他の数名が演歌 『そしてめぐり逢い』 を奏で始めるという

”世にも奇妙なバンド” が生まれた。  


その後、スタジオを大阪・難波に移すと会社から近いこともあって、さらに大人数が乱入するようになり、 バンドというより幼稚園の学芸会と化し、

プロ野球・1989年近鉄の加藤投手の日本シリーズ舌禍事件 『巨人はロッテよりも弱い』 (詳しくはWikipedia参照) と並ぶ、

「あのバンドは欽ちゃんバンドよりもひどい!」 と、陰口をたたかれ一旦活動を中断。

その頃に永山が、ドラムスに眞銅 兼司を伴ってきたので再度メンバーを5人に絞り、 新たに山崎(key)・大塚(vo)・大橋(g)・永山(b)・

眞銅(ds)の5人で再出発、 ようやく第一次Yonkai Bandが誕生した。


このバンドを正式にクラブとして認めてもらい、活動費 (スタジオ代) を会社に出させようと、無謀にも総務交渉してみたが総務部長の

「会社に対して貢献が認められれば前向きに検討する」 との、実に曖昧な返答を真に受け、 メンバー内会議の結果、同じ4階に勤務する

同僚の結婚式からまずは演奏(この時は山崎・大塚・大橋のトリオ)を始めることに決定。

思えばこれが「式典バンド」と呼ばれるゆえんであった。



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